言葉と言葉のつながり

第11講 S-11

 構えているとよい文章は書けないらしい。文章による創作、それは言葉と言葉の新しいつながりを発見することであるが、何かを熟慮するよりも、何気ない心意気のときに発揮される。つまり、このように文章を書いている時は、それが困難なのである。

 たとえば、自転車に乗っている時、歩いている時、何も考えていない時に、新しい言葉のつながりを発見する。例示した3つのうち、最低でも2つは自分自身が何かしら行動している時に起因し、あとの1つはどのような状態においてもあり得るであろう。いずれにせよ、構えることなく、思うに任せて、あるいは何も思うことがないのであればそれに任せることが必要なのだ。

 しかし、人々は、こうして発見したものを記録することなく放置し、次に思い出そうとしたときには忘却していることが、往々にしてある。このようにして忘れ去られ、もう二度と発見されなくなった言葉のつながりは幾多であろう。また、この事実は、この場のつながりのみならず、人々は発見した、創作しようとしたあらゆる事象について言える。例示するまでもなく、これが数多あることは推察できることだ。

 一方で、そのような興味深い発見と対比して、ここまで書いてきたような駄弁が溢れていることも、また事実である。構えることなく発見された言葉とことばのつながり、この対置には、思慮を含んだありきたりな駄弁がある。

 比較などではない。事実の提示である。

具体と抽象から抽象度

第2講 S-5

 前々回から話している「既知の説明文を集約する未知の言葉を知ったとき」が飛躍し、「言葉」の派生について説明をしていた。前回の後半を端的に言えば、抽象度の高い「言葉」は具象化される「言葉」を内在し、具象化された「言葉」は抽象度を高くすることができる、である。これについて詳しく述べよう。

 そもそも「抽象度」とは何であろうか。検索すると幾つかの結果が出るが、どれも似たようなことを記している。検索などしなくとも、「抽象度」を分解すれば「抽象」と「度(合)」となり、想像は容易くできる。以降は、「度」を「度合」として扱うことにする。では、「抽象」と「度合」それぞれの言葉の意味は何であろうか。これについては、『第2講 S-11』辺りで説明したように、「言葉」を「言葉」で説明する以上は果てのない作業が必要だ。そのため、個々人が認識している理解に委ねるしかない。

 さて、「抽象度」は「抽象」の「度合」である。前回の鏡もこの一例にはなるが、別の例を提示する。「筆記具」を挙げよう。これには、鉛筆、ペン、チョーク、筆などがある。さらに、鉛筆は黒鉛筆と色鉛筆、ペンはボールペン、シャープペンシル、サインペン、万年筆などがある。加えて、ボールペンであれば油性や水性、ゲルインキなどと、細かく分類される。これはシャープペンシルなども同様だ。

 全くもってまとまりのない文章であるため、次回を期すとしよう。